2017年11月26日日曜日

ブルックナーの描く神性(前編)


 企画記事第3弾です。今度の定期演奏会では第4ステージにブルックナーの代表的な作品である "Te Deum" を演奏します。なかなか難儀ですが、それだけに非常に魅力ある作品だと思っています。
 そんな "Te Deum" ですが、解説記事を孫指揮者(来年度の副指揮者)である佐々木君をお願いしたところ、彼の才覚と情熱溢れるような原稿が返って来、実際に紙面を溢れてしまいました。というわけで今回も分割記事でお届けします!


 アントン・ブルックナー(1824-1896)はオーストリアの作曲家です。10歳頃からオルガン奏者として活躍。30歳頃からワーグナーに傾倒し、本格的に音楽理論の研究を始めます。40歳を過ぎてからウィーン国立音楽院の教授に就任、交響曲の作曲をはじめます。『交響曲第7番』で成功を収め、数々の交響曲を残しつつも、『交響曲第9番』が未完のうちにこの世を去りました。
 ブルックナーは非常に敬虔なキリスト教徒でした。質素な服装、マナー、敬虔なカトリック信仰ゆえに、当時ユダヤ人資本家が推し進める資本主義化・それに伴う社会の変化に危機感をもつドイツ人にとって、古き良き自由主義的改革以前のオーストリア時代を象徴する人間として尊ばれるノスタルジックな存在だったといいます。数々の宗教曲も残しましたが、そのなかでも、今回アポロンが定期演奏会で取り上げる“Te Deum”は、ロマン派音楽における宗教曲の最高峰と言われています。(余談ですが、“Te Deum”が作曲されたのは先に挙げた『交響曲第7番』完成直後で、楽曲の構造、和声感が非常によく似ています。特に、Te Deumの終曲のフーガ部分は、交響曲第7番の第二楽章Adagioと瓜二つなので、気になる方は音源を探ってみてください。)
 Te Deumはキリスト教カトリックのおける聖歌で、テクスト冒頭“Te Deum laudamus”(神であるあなたを我らはあがめます)から、この名称で呼ばれます。その内容は一貫して「キリストへの賛美」です。当時キリスト教を懐疑的にとらえる風潮が広まり、オペラなど世俗的な音楽が熱狂される中で、キリスト教の教義を真正面からとらえた音楽を生み出したことに、ブルックナーの敬虔な精神がうかがえます。
 ブルックナー作曲“Te Deum”は第1曲「Te Deum laudamus」、第2曲「Te ergo」、第3曲「Aeterna fac」、第4曲「Salvum fac」、終曲「In te, Domine speravi」の全5曲からなりますが、今回はTe Deum第1曲「Te Deum laudamus」に焦点を当ててテクストはどのようなものか、そしてブルックナーはそれをどのような形で音楽にしたのかを紹介します。

 Te Deum laudamus: te Dominum confitemur.
 Te aeternum Patrem, omnis terra veneratur.
 神である御身をわれらはたたえ、主なる御身をわれらは讃美します。
 永遠の御父なる御身を全地は拝みます。

 第1曲冒頭のこの歌詞は、合唱の力強いユニゾンで神を讃美する精神が歌われています。このような印象的なユニゾンを通した高い精神性は全曲を通して多用されています。また、各小節第1拍に山型アクセント「^」を、それ以外の音符には通常のアクセント「>」が付けられています。オーケストラ伴奏でパイプオルガンや金管楽器の大音響の中で、神への讃美の歌声が埋もれないように、といった意図でもあるのでしょうか。

 Tibi omnes Angeli, tibi coeli et universae potestates,
 Tibi Cherubim et Seraphim, incessabili voce prochamant:
 すべての天使も、御身に向かい、天とすべての権力がある者も、
 ケルビムも、セラフィムも、御身に向かい、絶え間なく声高らかにうたいます。

 この部分ソプラノ、アルト、テノールのソロ三重唱で歌われます。前の合唱部分でキリストへの讃美を受け、「神を讃美するのは、我らだけではなく、すべての天使、天、この世の権力者など、この世のありとあらゆるものである」ということを述べています。この部分はソリスト同士の掛合い。G-durのコードに始まりますが、ソリストの掛合いの度に相次ぐ転調。キリストへの讃美は、ありとあらゆるものからのものであるということを象徴するかのように。

 Sanctus, Sanctus, Sanctus Dominus Deus Sabaoth.
 Pleni sunt coeli et terra majestatis gloriae tuae.
 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。
 天も地も、満ちている 御身の栄光ある御いつに、と。

 ソリスト三重唱から、ふたたび合唱へ。F-mollの静かで不穏な雰囲気。Sanctus(聖なるかな)という言葉は、1回目はピアニッシモで、2回目はピアノで、そして三回目ではC-durの華々しいフォルティッシモで歌われます。Sanctusは神を讃美する象徴的な言葉ですが、その同一の言葉のppからffへの移り変わりは、内なる讃美と、外に発散させるような爆発的な歓喜との対比を見事に描いています
 Pleni sunt…部分はこの曲の最初の盛り上がりです。「天」と「地」という印象的な言葉を、女声合唱と男声合唱の掛合いで描いています。短調のなかで、三和音と七の和音を執拗なまでに鳴らし続け、それを受けてmajestatis…で「あなたの威厳ある栄光が充ち満ちているのです!!!」とキリストへの讃美を力強く歓呼するのです。ハイドンが『天地創造』で短調の単純な和音で「光あれ!」と神が命じる様子を描いたことや、それからC-durの三和音で「光ありき!」と力強く歓呼の合唱をする場面をも思い起こさせます。単純な和音で自然なものではありますが、その自然感覚が鋭敏で、強烈でビビッドな表現へと昇華するブルックナーの素晴らしさが全面に溢れ出ていますね。
後編へ続く)


-定期演奏会情報-
12/24(日) 第55回記念定期演奏会 @神戸文化ホール大ホール
詳しい情報・チケットのお申込みはこちら!
また、定演の告知動画も出来ました。ぜひご覧ください!


-過去の演奏が聴けるようになりました-
第53回定期演奏会の第1ステージ(平行世界、飛行ねこの沈黙)
第54回定期演奏会の第3ステージ(嫁ぐ娘に)
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2017年11月12日日曜日

ELEGIAの詩と音楽(後編)

前編の続きです。


(詩を再掲:『ソルシコス的夜』)
~~~

雨の街では
夜はすべてのガラスである

口紅で
彩色された
たとえば君
の透明なジェラシィ

または
シャボンの円錐
の上
の金髪の月など

夢は
翼あるガラス
である

遠い
夜の空に
きらめいてる
ガラスの旗のように

純粋
のエスプリ
の結晶
の石竹いろの

アヴェニュをよぎつていく
永遠的なシルゥエット

ひとたばの

のなかに
消えていく
手袋など

いつぽんの針
のなかの風
のように
すべての声は
とつぜんに
ちぎれていく

                     詩集「真昼のレモン」より
~~~

他の4曲は詩がある程度センテンスで読めるのに対して、ソルシコス的夜はやや難解に見えます。
木下先生は前書きにて「実験的な作品はなるべく避けて、リリシズムとシュールな感覚がいいバランスで混在する、私好みの詩を多めに並べてみた」と述べていますが、同曲はどんな位置付けなのでしょうか?

曲の音楽面に目を向けてみます。8分の6拍子の中でのベルトーンは動的な印象ながらも、少しずつ音を変えつつ何度も出てくるため、再現性を印象付けます。
また「アヴェニュ」「ガラス」といった『1. ELEGIA』『3. 春のガラス』を想起させる単語に対応して、それぞれのニュアンスが強調されています。前者はその部分だけ『1. ELEGIA』と同じA-durになりますし、後者は2回ともテヌートが付けられています。
さらに、『2.奇妙な肖像』で頻出するオーギュメントの和音がこちらでも幾度か登場しており、Mysterioso感を際立たせます。繰り返されるベルトーンと共にそのようなイメージが断片的に反芻されながらも、最後はすべて「ちぎれて」いきます。

あくまで個人的な印象ですが、『5. ソルシコス的夜』は北園氏の美的センスを存分に味わいつつ、それまでの4曲を通して描いてきたイメージ・景色が走馬灯のごとくリフレインされる、まさしく終曲と言えるものなのかなと感じています。氏のラディカルな世界観が繊細かつシャープな音楽として表現されたこの曲は、傑作と言っても過言ではないと思います。

もちろん実際の演奏者としては大変な部分も多いですが、定期演奏会では少しでもこの世界観・雰囲気を感じて頂けるような演奏をしたいものです。

※厳密には「中」と「内」はニュアンスが異なるので内包と言うべきでないかもしれませんが、時間の制約上、より適切な表現を見つけきれませんでした。
(了)

-定期演奏会情報-
12/24(日) 第55回記念定期演奏会 @神戸文化ホール大ホール
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2017年11月10日金曜日

ELEGIAの詩と音楽(前編)

企画記事第2弾です。今回は第3ステージ、『ア・カペラ混声合唱のための ELEGIA』(作曲:木下牧子、作詞:北園克衛)を取り上げ、その魅力について正指揮者に語ってもらいました!


第3ステージにて演奏する『ア・カペラ混声合唱のための ELEGIA』に関して、詩の北園克衛氏の特徴に触れつつ、個人的な見解を交えながら書きたいと思います。

北園克衛氏は主にモダニズムの中で活躍した前衛詩人であり、「実験」として感覚的な作品をいくつも発表しました。1959年に発表された「単調な空間」はその最たる例と言えます。

~~~

1.
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなか
の黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角


2.

の中の白
の中の黒
の中の黒
の中の黄
の中の黄
の中の白
の中の白


3.

の三角
の髭
のガラス


の三角
の馬
のパラソル


の三角
の煙

ビルディング


の三角
の星

ハンカチイフ


4.
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

~~~

一見むつかしく、よく分かりません。
北園氏は、日本におけるコンクリート・ポエトリー(意味性を排除し形式や視覚的効果に着目した詩)の先駆者でした。また、その後には写真を詩そのものとして用いる「プラスティック・ポエム」を提唱しています。すなわち、ヴィジュアル的な感覚を重視しています。

この作品に限らず、改行後の文頭に「の」を用いるパターンが頻出しますが、これはメタ・フィジカルな世界をイメージの明瞭さを保ったまま表現する試み、といえるかもしれません。
例えば


の三角
の馬
のパラソル

本来は前後と繋がっているはずの助詞「の」が、改行によってある種断絶されています。やや乱暴な言い方をすると、この断絶により、単語のイメージ(≠意味)が保たれたまま「~の…」という内包が強調されます。(※)
肝要なのは、イメージが保たれたままだという事です。これが

白の三角の馬のパラソル

となると、区切りが分かりづらく、イメージの輪郭もぼやけてしまいます。
読点を用いたとしても、助詞の手前で使わない限り形而上的な感覚は変わってしまうでしょうし、手前で使ったとしても改行の効果には及ばないでしょう。

さて、ここから『ELEGIA』の話になります。
『単調な空間』と最も近い感覚で詩が書かれているのは、終曲の『5. ソルシコス的夜』です。

~~~

雨の街では
夜はすべてのガラスである

口紅で
彩色された
たとえば君
の透明なジェラシィ

または
シャボンの円錐
の上
の金髪の月など

夢は
翼あるガラス
である

遠い
夜の空に
きらめいてる
ガラスの旗のように

純粋
のエスプリ
の結晶
の石竹いろの

アヴェニュをよぎつていく
永遠的なシルゥエット

ひとたばの

のなかに
消えていく
手袋など

いつぽんの針
のなかの風
のように
すべての声は
とつぜんに
ちぎれていく

                     詩集「真昼のレモン」より
~~~
後編へ続く)


-定期演奏会情報-
12/24(日) 第55回記念定期演奏会 @神戸文化ホール大ホール
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